FTMが男へ性別移行の途中。学校、名前の変更、恋愛
まだ読んでない方はこちらも
見た目が男性になるように、FTMのパス度を上げる筋トレ 私はこうと決めたらそれに執着しやすい気質で、自分でいうのもなんだ…
日々の積み重ねなのは、健康も未来も男性化(笑)も一緒。
戸籍上男性になって11年過ぎたんですが、それ以前から出会っている人は私の変貌ぶりも知っている(笑)
性別変更というド変態の旅をスタートさせたのは19歳の頃。
まず、専門の心療内科でカウンセリングを続ける(約1年)
性同一性障害と診断を受けた後は、実際に男性化に進むために生活を変えていくのだけど、
それをリアルライフテストと言って、今までと反対の性別で生活してみてどう感じるのかとか、うまくいかないことはあるのかを検証する。
つまり、
「本当にいいの?」
「男としてやってける?」
「今ならまだ戻れるよ?」
なんてことを生活しながら感じ、それでも反対の性別を望むゆるぎない決意があれば、その後にホルモン療法や外科手術の選択権が与えられる。
名前
今は中性的な名前の人もいて改名しない人もいるみたい。
私の場合は男性として通用するのに難しい名前だったから、改名は願っていたことのひとつ。
でも今日名前を決めて明日改名が完了するわけではなくて、裁判があったり(裁判って犯罪や争いだけじゃないのを知ったw)メンドクサイ道のりだったなぁ。
不思議と小さい頃から名前の響きも呼ばれるのも嫌だったし、ちゃん付けで呼ばれるのも気持ちが悪かった。
(今はかとちゃんって呼ばれても平気)
名前って、何か登録するときとかに絶対書くでしょ。
中には身分証明証の提示も求められる。見た目は男性でも、身分証明で女性なのがばれて残念な気持ちを積み重ねてきた。
改名のステップ
- 名前を決める(ここでは通称名という扱い)
- 送られてくる郵便物や会員カードの名前を通称名に変えてもらう
- 家庭裁判所に申し立てをする
- 裁判後、許可が出たら戸籍の名前が変更され、公的にも通用する
新しい名前を通称名として使い、送られてくる郵送物や書類を集める。
それが戸籍の名前を変える裁判を起こす時の証拠資料となり、
「私は通称名で社会で通用しています。戸籍上の名前だと通用しなくて不便なんで変えてください。」
というアピールになる。
友人に年賀状とかを通称名で送ってもらい、通販も通称名で登録。
名前はどう選んだかというと、いくつか候補を挙げた後はネットの画数診断…(笑)
身近で同じ名前の人がいたら辞退するとかして、バランスをとった着地点が今(笑)
たくさんの証拠と診断書を握りしめ松戸の家庭裁判所へ。
裁判は場合によって後日呼び出されて話を聞かれたりするんだけど、この時は呼び出しはなかった。
しばらく経って裁判所から郵便で、「主文、~」の文書が届き、無事に名前が変更された。
その後は銀行やらなにやらの名前の変更。事情の説明が面倒な時は送られてきた裁判所の資料と診断書を印籠に。
名前の変更が済んだら、氏名を書くストレスがなくなったよ。
性別に〇をつける書類はまだしんどかったけど。
学校生活(高校・専門)
私がカミングアウトを始めたのは高校生の時。
男女に分かれた制服が当たり前の時代、私服の公立高校もあったんだけど私の学力が入学条件から漏れた(笑)
人生を投げやりに思っていたので、高校進学も近所のどこでもいい。なんなら行きたくないとふてくされていたの。
その時はサッカーに夢中で、ふと英語が出来て海外でサッカーできたらかっこいいよね!っていう発想に(笑)
それで外国語に力を入れている高校に決めたんだけど、女子の制服が全国的に評判の高校で、当時のギャル雑誌(セブンティーンとかポップティーンとか?)でも取り上げられたり、ブル〇ラ目的で売買されていたほど(笑)
なんでそんなところ選んだんだろうって後になって思ったけど、サッカー熱だったな。
でも、中学から高校に変わって新しい人間関係になって、女子としてやりきる覚悟を入学当時は持っていたの。
しおらしくスカート履いたし(ミニスカにする勇気はなかった…)
髪も伸ばしてみようなんて頑張ったときもあった。
封印してた素性がでてしまったのは好きな人ができてから。
もースカートなんて嫌。女らしくいるのも疲れた。
友人に打ち明けたりして男性化していったとき、理解ある男友だちが制服のズボンを1本貸してくれた。
そうしてズボンライフが始まったんだけど、これが意外にもバレない。
結局頭髪検査かなんかの時にバレて(頭髪は合格w)先生方にはいろいろお世話になった。
グローバルな学校だったからいじめられることもなくそんな感じで済んだのかも。
トイレは基本的に誰もいない時間(わざと授業中に行ったり)や人気のない場所まで足を運ぶ。
多感な時期だからうんこをしたくて別棟のトイレを使っている男子生徒がいたが、私も似たような感じ。
生理の時は知られたくなくて学校でどうふるまったらいいか困ったから学校をサボることもあった。
別にお腹が痛いからとかじゃなく、生理用品を持ち歩き女性を感じなくてはならないのと、心配で頭がいっぱいになってしまうから。
幸い、高校にはプールの授業がなかった。珍しくプールそのものが無かった。
専門学校は昼間部と夜間部に分かれていて、1日当たりの授業数は2コマしかなかったので、丸一日いなくてはならない小学校~高校の生活よりはうんと楽だった。
私にとっては資格を取りに行くための塾のようなもので、人間関係も今までより深くなることがなかったので割り切って過ごせた。
それでも色々悩んだ。
高校ではいじめられなかったけど、専門ではいじめられた。
最終的にそれは相手の嫉妬だったってのが分かったんだけど、数名から急に総スカン食らって居場所がなくなって、自分がどんな悪いことをしてしまったんだろうと毎日悩んだ。
柔道整復師の履修項目には柔道がある。
道着を着て、形を習ったり取り組みをする。
改名やホルモン療法を始めたのは専門学校に行ってからなので、この3年間は変化の多い時期だった。
入学したころは男性のスーツを着た女性…名前が変わって声が変わって…2回目の第二次性徴期を経過し…
どう付き合ったらいいかわからないひともいたよねきっと。
柔道だって声変わりして男性的になってきたのに、授業のときはほぼ女性と組む。
事情を知っている人に囲まれていたとはいえ女子か男子に二分化すると扱いに困る存在だよね。
道着は女性用、名前は男子、見た目も男子、戸籍は女。
柔道初段認定は女性名。国家試験と卒業証書は男性名。戸籍上はまだ女性。
それでも、当時の学校の方や友人はよくしてくれた。
今でも良くしてくれる数少ない同期には本当に助けられた。
実は、専門学生2年目頃。学校を辞めようと思ったことがある。
それは治療のステップが進んで、ホルモン療法にかかろうとした時。
父親が突然治療を反対し始めたのだ。
柔道整復師の専門学校に行って資格を取って、男性として社会に出た後は自分で開業したい。
そういう計画で、からだの変化は専門学生のうちする予定だったから。
「治療を選ぶか、学校を選ぶかどっちかにしろ」
ここでは詳しく書かないけど、父親との関係、私が父親に抱く感情は小さい頃から悪かった。
父親の生き方を見てきてはっきり言って信頼がなかったのだ。
自分の相談についても、帰ってくる返答は父親の気分によって180度覆る。
この時が初めてじゃないのにショックを感じたのは、自分の人生を賭けていたからだと思う。
しばらく学校に行かなかった。
考え、学業よりも体を変えたい。
辞める決意をし、再度父親と話をしようと向かい合った時、返答はまた180度覆った。
「両方やっていいよ」
この怒りはだいぶ小さくなったけど、今こうして思い出して書いていると感情が湧いてくるから、まだ消化できていなんだ。
父親の視点に立って考えれば反対したい気持ちはわかるんだけどね。
そんなことがあったけど、結果、治療も学業も両方手に入れることが出来た学生時代でした。
そして自分の人生を自分で決めて生きてやる!って決意したのもこの頃でした。